結局、就職活動を始める直前にソフトウェア開発が本当に好きだという自分に目覚めて教員にはならなかったのですが、今でもろう教育の状況はどうなってるんだろう、ろう学校の教員になった何人かの知人・友人たちは元気で頑張っているだろうかと、ふと気になることがあります。
また難聴児を持つ親御さんからも相談を受けることがあるのですが、たいていはうまくアドバイスできないんですよね。それで少しでも何か知っておきたいということで、知人に次の本を紹介してもらいました。
「聴覚障害教育これまでとこれから―コミュニケーション論争・9歳の壁・障害認識を中心に」本の内容は知人のブログ「聴覚障害教育これまでとこれから」でよくまとめておられますが、私も読書して面白かったです。著者の脇中さんのご姿勢にも好感を抱き、特にBICSとCALPは勉強になりました。私はろう教育も含め何もかも詳しくないのですが、素人なりに感想を述べます。
脇中さんのように率直で、優れた自己表現をされる教員が、昔の聴覚口話法に疑問を持たれつつ、「日本手話と対応手話を区別する必要性を強く感じていない」としているところに「惜しいなぁ!」と感じました。私なら「日本手話と対応手話をしっかり区別し、双方の観点からのアプローチを考える」としたいなぁと。
断続的な引用になりますが、次の文章がありました(カッコ内は私の補足)。
音韻意識の形成のために2つの手話を包含する新しい方向性の追求が必要であると考えます。
日本語で考える習慣のない子どもは、習慣のある子どもと比べると、日本語の定着が難しいと思われるので、手話の早期導入を図りながらも、「(日本語の)音韻意識」の形成や定着に留意する必要があると考えます。
上記の考え方には、やはり違和感や疑問が湧き出てくるのを禁じ得ません。なぜなら、私の知る限り、日本語で考える習慣(日本語の音韻意識)が弱い子どもは、中・高校生以降でもその習慣が向上した例を見たことがないからです。逆に言うと、日本語の音韻意識が優れている子どもは、幼い時から優れていました。
今度は、自分を例に挙げます。幼い時期から日本語が正しく書けていて教育関係者などを驚かせたものですが、実は大学入学前までの私の自己表現力は-目を覆いたくなるほどではないが-ひどいものでした。こんな私でも、大学入学後に、このブログをご覧のように人並みの文章が書けるようになり、両親を驚かせたのも事実です。読書も作文も好きではない私が、なぜここまで改善できたのでしょうか。大学入学を機に、否応(いやおう)でも、日本語または手話を使って人に説明しなければならない機会が増え、推敲する時間が増えたからではないかと思うのです。
一方、学生時代も含め、日本語を含めた「学力」が私と同程度か少し劣っていても、私が足元に及ばないくらい優れた自己表現ができる方々が結構いらっしゃるのです!また日本語がマジョリティ言語とはいえ、日本語が苦手でもご本人の適応力によって、同僚が手話を覚えてくれ、楽しい職場生活を送られた例もあるのです。そのような方々のことも考えなければならないように思います。
以上、回り道をしましたが、
日本手話を用いた教育の場面において、日本語のCALPが育つかどうかを脇中さんは懸念されています。でも逆に、対応手話を使って音韻意識を形成させる試みも、多くの子どもにとっては上達する可能性がすこぶる低いのではないかと、私の経験から来る直感が感じています。(直感でゴメンなさい・・・)
つまり、日本語にしろ手話にしろ自己表現力の切磋琢磨は、ご本人の思考、推敲、あるいは、練習の蓄積によるものがあると思うのです。すなわち考えたり感じたりする力です。
子どもに合わせた教育を実践できるのが望ましいのですが、現実的に学校のようなクラス制では個別教育ができる部分があまりないだろうと思います。
考えたり感じたりする力の蓄積を、日本手話で育む子どもがいれば対応手話で育む子どももいると思うのですが、うまくいかなかった場合の人格形成のリスクを考えると、やはり後者の方が懸念されるべきではないかと警鐘を鳴らし続けていきたいです。
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